『アイデア大全』

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特別コラム

本原稿は本書の内容を元に著者と編集者で構成したものです


成功するかしないかは「運」がすべて
――注目を集める言葉「セレンディピティ」の本当の意義とは?

 成功するために一番必要なものは何か? 「努力」「才能」「金」「運」……さまざまな意見があるだろう。

『論語』には「死生命に有り、富貴天に在り(寿命は天命によって決まり、財産地位は天によって決まる)」とあり、宿命や運命の絶大な力を教えている。秀でた才能を持つのも運、お金持ちの家に生まれるのも運と考えれば、「運」ほど私たちの人生を左右し、決定づける要素はないのではないか。そんな身も蓋もない結論に至ると、「努力は報われる」なる成功者の言葉も虚しく聞こえる。

「1%のひらめきと99%の努力」とは誰もが知るエジソンの名言だが、「99%努力しても1%のひらめきがなければ無駄」という本来の意味を知っている人は意外と少ない。やはり、努力よりも幸運(=ひらめき)をつかむセンスのほうがずっと大事ということなのだろうか。

 しかし、そのセンスを鍛えることが、誰にとっても可能であるとしたらどうだろう。近年、創造性研究やスピリチュアル分野を中心に関心が高まっている「セレンディピティ」という言葉を知れば知るほど、幸運をつかむにもコツがあり、誰もがそのコツを手にできる可能性があることに気づく。



セレンディピティは誰のもとにでも訪れる

「セレンディピティ」という言葉は、端的にいえば、何かを探しているうちに、もともと探していなかった別の価値があるものを偶然見つけること。また、より広い意味では、偶然によって価値あるものを見つけることだ。

 セレンディピティという語が使われるようになったのは、アメリカの社会学者ロバート・マートンによる。マートンは、のちに社会学の共有財産となる多くの概念を提案しているコンセプトメーカーであり、また科学社会学という分野のパイオニアでもあった。

 1945年、マートンは科学者自身にとっても予想外の偶然が、発見や発明のきっかけとなる例が少なくないことに注目し、論文として発表しようとしていたが、この現象にぴったりくる言葉をなかなか思いつけずにいた。

 そんなとき、別の言葉を調べるために「オクスフォード英語辞典」を手にしたマートンは、たまたま「偶然と察知力によってあてにしないものを発見する才能」という意味の語に目をとめた。辞書によれば、ホレス・ウォルポールが1754 年につくった造語で、ウォルポールが子供のときに読んだ『セレンディップの3人の王子』という童話にちなんだものだという。これこそマートンが探していた言葉だった。

 出来過ぎとも思えるほどに、エピソードそのものがセレンディピティを象徴している。

 しかし、こうしたセレンディピティは誰のもとにも訪れる可能性がある。なぜなら、セレンディピティをつかんだ彼らに訪れた偶然には、他の人たちも体験したようなよくある出来事や、普通は避けるべき失敗などが含まれているからだ。



「運を天に任せる」メリット

 セレンディピティについて詳述する前に、まずは人類がどのように「偶然」に対峙してきたか、簡単に歴史を振り返ってみたい。セレンディピティをつかむには偶然から何かを読み解く察知力がどうしても必要だ。だからこそ人間が偶然にどのように振り回され、あるいは利用し、生きながらえてきたか、先人の知恵から学ばない手はないはずだ。

 歴史を遡ると、古代中国では亀甲のヒビ割れによって神意をうかがう亀卜(きぼく)が竜山文化期(前2100 年頃)にすでに行われていたが、獣骨を焼いてそのヒビで占う方法は世界中に広がっていた。

 また、本が自然に開くのに任せて、目を閉じて節を選び、指針にする開典占いはキリスト教徒の間では聖書を用いた聖典占いが広く行われたし、中世ヨーロッパでは他にウェルギリウスの『アエネーイス』やホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』が、イスラム教ではコーランの他にペルシャの詩人ハーフェズの詩集が用いられた。日本でも百人一首を用いた同様の占いがある。

 ともすると現代に生きる我々はそうした手法を非科学的な迷信として一蹴してしまいそうだが、こうした技法のメリットを理解し、それらが世界に広く分布し、時代を超えて生き残ってきた理由を知るためには、人類学者ムーアの研究を援用して、組織(化)論のカール・E・ワイクがまとめた次のような考察が参考になる。

 ネイティブアメリカンであるナスカピ族では、長老はカリブー(トナカイ)の肩甲骨に現れたヒビを読み、狩人たちはそれによって狩りをする場所を決める。ムーアとワイクによれば、ナスカピ族のこの〈意思決定〉は次のような利点をもっている。

  • ◎もし失敗しても、誰かに累が(それほどには)及ばない。
  • ◎情報が不十分なときでも、決定が下される。
  • ◎代替案の間でさしたる違いがないときでも、迷わず決定が下される。
  • ◎(資源への負荷が分散することで)ボトルネックが克服されるかもしれない。
  • ◎(次の手が読めないため)競争者が混乱する。
  • ◎代替案の数が(原理的には)無数になる。
  • ◎手順が愉快だ。
  • ◎決定は常に速やかに下される。
  • ◎特別な技能がいらない。
  • ◎お金がかからない。
  • ◎その過程にケチのつけようがない。
  • ◎ファイルやその保管場所がいらない。
  • ◎贔屓のしようがなく、どの代替案にも等しい重みづけがなされる。
  • ◎解決に至る論争が不要である。
  • ◎真の新奇性を呼び込むことができる。
  • ◎読み方を変えることによって、ツキを変えられる。
  • ◎過去の狩りの影響を受けない。同じ柳の下にドジョウを探す愚――短期的には賢明であっても、長期的には資源を枯渇させる愚かな戦略――を避けることができる。
  • ◎人間や集団が無意識にハマる選好や分析、思考のパターンにも影響を受けない。しばしば野生動物は人より速くそのパターンを見抜き感じ取るので、その裏をかける。

 偶然という不確実性をわざと導入することで、不確実性の高い課題に対処するというこのアプローチは、伝統的な工学のアプローチとは正反対ではあるが、ワイクによれば、ヒトの認知能力と責任能力を超えた問題解決や意思決定について、しばしば最善の、時として唯一の、解決法となりうるのだ。



偶然を受け止める勇気

 偶然は、感情的にも社会的にも認知的にもこれまでのやり方に拘束された私たちの思考を、否応なく変更する強力なツールである。サイコロやランダムに開いた書物のページは、私たちの習慣やものの見方や恐怖心に頓着しない(もちろん自身が過去に出した結果にも)。それゆえに、私たちを思ってもみないところへ連れて行くことができる。

 ランダムにもたらされた一歩目に、なんとか転ばぬようにバランスをとり、ついて行こうと自分の足を前に出すことで、今までとったことのない行動や思考が生まれる。その中に、これまでの経験したことのない何か、セレンディピティを発見できる(かもしれない)。

 そのすべてが花を咲かすわけではないが、それらは自身の中に見つかった、これまでと違った思考を働かせるための種である。

 逆に、偶然の扱いに失敗する秘訣は、出てきた刺激を受け取らず、自分好みのものが出てくるまで、パスして流してしまうことだ。

 近年のセレンディピティへの注目の高まりに見られるように、創造的活動に対して偶然が果たす貢献に、改めて関心が高まっている。誰にでも到来するはずの偶然の手がかりを、実際に受け取って創造につなぐことのできる人は少ない。何が来るか予想もつかない偶然に対して準備することは難しい。

 しかし偶然に胸襟を開くことは不可能ではない。練習さえできる。ランダムな刺激に慣れ親しんでいくと、およそどのようなものでも成功のためのヒントにすることができること、つまり我々にとって無駄となる体験などないことが理解できる。



「偶然」を味方につける方法

 拙著『アイデア大全』を執筆するにあたり、私は数多くの学者のエピソードを参照したが、やはりセレンディピティの産みの親ロバート・マートンが語るように、偶然を味方につけて世紀の大発見をした人は数多い。

 最も有名なセレンディピティの例といわれるのがリゾチームとペニシリンの発見だ。アレクサンダー・フレミングは細菌の培養中、ペトリ皿に誤ってくしゃみをして唾液を飛ばしてしまった。並の科学者なら、ここで実験を中止したかもしれないが、フレミングはペトリ皿を破棄することなく、その偶然をきちんとラボノートに記録していた。すると数日後、唾液が飛んだ周囲だけ透明になっており、これがきっかけで現在も医薬品として使用されるリゾチームが発見され、さらにペニシリン発見に至った。

 ヴィルヘルム・レントゲンは陰極線の研究中に、机の上の蛍光紙の上に暗い線が表れたのに気づき、この現象をさまざまに条件を変えて調べることで、(元の研究テーマとは違う)X線を発見した。

 レーダー用のマグネトロンの量産に取り組んでいたパーシー・スペンサーは、ポケットに入れておいたチョコレートバーが溶けていることに気づき、これをきっかけに電子レンジを発明した。

 日本にも、間違えてグリセロールとコバルトを混ぜてしまい「捨てるのも何だし」と実験したところ、レーザーによるタンパク質の気化・検出に世界で初めて成功した田中耕一(2002 年、ノーベル化学賞受賞)や、触媒の濃度を1000 倍にするという失敗をきっかけに溶媒濃度を大幅に上げて実験を繰り返しポリアセチレンの薄膜化に至った白川英樹(2000 年、ノーベル化学賞受賞)などセレンディピティの例は少なくない。

 実験材料を混ぜ損なううっかり者は、田中や白川の研究室以外にも当然いた。彼らは幸運な偶然に恵まれただけでなく、それを見逃すことなく捕まえ、その後もしつこく追究したために成功したのである。

 これらのエピソードから学べるのは、偶然を活かすには、その偶然が取り上げるに足る意義をもつものであると察知できるほどの準備・蓄積が必要であり、加えて偶然という種が花開くまでその可能性を追究する努力が不可欠であるということだ。

 セレンディピティという言葉の意義は、そう名付け、〈言挙げ〉することによって、いつ偶然に見舞われるかもしれない人々に、それに気づくための注意を促し、偶然への感受性を高めることにある。そして、失敗からも何かを得ようとするマインドを、わずかな気掛かりであっても気が済むまで探求することを許す勇気を、与えてくれる。

 何気ない出来事も、失敗さえもセレンディピティに転化する可能性があると考えれば、「成功は運にかかっている」といわれても失望するどころか、むしろ前向きに捉えることができるはずだ。無論、先に挙げた科学者たちが全員そうだったように、前提としての努力や経験、知識の蓄積があることは必須だが。