月刊・石井裕之~沢雉会 シーズン2・第4号
「理解からの共感」という話を4号で聞かせて頂いて 私の体験を思い出しました。私は何年か前に、ある人を憎みました。憎もうと決心したのはひとつの切欠に過ぎなかったのですが その人に対して10年くらいの年月、共感できない事が積み重なっていたのです。それは私やまわりに対する言葉や行動でした。どうしても共感できないことでした。憎もうと決心しなくても良かったのかもしれませんが、今まで明るい場所で過ごしてきたつもりの自分にも嫌気が差したのかもしれません。あえて暗い場所に自分を追い込みました。自分のこころもどんどんドロドロになり 家族も巻き込んでこころが空っぽになりました。でも憎んだ相手は相変わらずで私が落ちていっても変わりない生活を送っているように見えました。気がつけばそんな自分のまま一年経っていました。このままではいけない。こんな自分は嫌だと思っても自分ではどうすることもできなかった。しかし、そんな私にある出会いがあり その人から本を通して著者が何を伝えたいのか、そして自分が共感できる事できない事を考えること。というこころの作業を教えてもらいました。現実生活の中で私のこころの揺れを一緒になって支えてもらったり、引っ張ってもらったり。。。そしてある日、憎んでいたはずの人が「こんにちは」と言ってくれたことが自分の中で光が差したように有り難くて有り難くて 気がついたら花束を買って「ありがとう」と言っていました。今回の4号のお話を聞いて、その人を憎みきれなかった自分やその人にしかない良い所を発見できたこと、いえ前から分かっていたけど認めたくないだけだったこと、それを理解したかった自分をちょうどカメラをひいてあらためてみれた感じがしました。自分の中に自分をあきらめたくない!という思いが ある人との出会いのチャンスをのがさなかったし、その人からそして学び 人間の思いの深さ、沢山の気づきの種をまけたのではないかと思います。そして私に憎まれた人も決して平気ではなかった事、その人も苦しんでいたのだと今は理解しています。今回のお話でドキッとしたのは「自分より凄い人をみて自分ができないと思うのは同時に自分よりできていない人をみて馬鹿にしている気持ちと同じ」という石井先生の言葉でした。人と自分を比べるということにある意味そんな罠があったなんて。簡単に流していた感覚だったなと思います。豊かさとは私にとっては「魂が振るえる事」です。しかし、感じる感覚を名詞化して外に求めてしまっている現状、感じる感覚が自分の今のポジションで常に無限のグラデーションを動いている事実。とても勉強になりました。意識してそんな角度から自分の生活 こころの在り方を見つめなおしてみようと思いました。自分で補う部分が必要になることは大きなプロジェクトの中で自らを押し出し重要な役割をもって生きていくためのひとつのプロセスに繋がっていくものなのでしょうね。大切な感覚ですね。ありがとうございました。
高山 さおり 様 (広島県 女性 2009年05月09日投稿)